医療生協のニュースが届きました。連載されている「3,11そのときわたしは」の記事に目が止まりました。「あの日は玄関のドアを開けて、落ち着くのを待ちました。実家のある三陸沿岸方面がひどい揺れだったとテレビで知って、青くなりました。岩手、陸前高田市にいる実家の兄87歳、大船渡の姉は82歳、妹は78歳。みんな海辺に住んでいます。津波警報も出ていましたが、まさかあんな大津波が襲うとは。連絡が取れず、安否はわからず、呆然としました。新百合ヶ丘での支援カンパ活動で「生きていてほしい」と泣きながらマイクを握り、訴えました。」と書かれています。
そうでしたそうでした。あの時は、私もマイクを握って、支援のカンパを訴えていました。その時、Tさんが「私にも訴えさせて」とマイクを握り、「何度も何度も、電話しているのですが、兄と姉に連絡がとれません、どうしていいかわからず、心配で心配で。いても経ってもいられない。支援の訴えをしていると聞いて、この場に駆けつけました」Tさんの涙ながらの訴えは多くの人の心に届きました。
その後、幸い実家は、津波の前年に高台に新築していたので、何を逃れたそうですが、姉二人の家は全部流され、今は仮設住宅に住んでいるとのことです。
先日、弟の家で、実家の棟上げ式の録画を観ました。「この人が流された」「この人の奥さんが津波で流された」・・・・元気に働いている人たちの映像を見ながら、この2年後に、失われてしまった命を思うと、胸が痛んで仕方がありません。と書かれていました。
78歳、82歳のお姉さんは、いまだに仮設住宅にいらっしゃるとのこと、とても不便をしているそうですが、今更新しいところには移ることもできない。
震災から3年が過ぎましたが、復興は遅れに遅れています。私も、被災地支援に3度行きましたが、被災地の方の、「震災を忘れないでほしい、私たちのことを、忘れないでほしい」の言葉が、忘れられません。