活動レポート

宮城・蔵王町で被災にあった方から手記

2011年3月19日

麻生区在住のAさんから共産党麻生区震災対策本部に届いた手記を紹介します。

その日、私は宮城蔵王の麓の町にいました。親しい老夫婦の家を訪ね、帰ろうとしたその瞬間、いきなり大きな揺れが起き、石油ストーブを消し、家の玄関と庭に添ったガラス戸を開けました。壁の額がズレ落ち、植木鉢が倒れスタンドが落下し、ガラスが粉々になりました。人形が倒れ、テーブルのケーキが床にすっ飛びコーヒー茶碗が壊れました。婦人が叫び声をあげ、私につかまってきます。立っていることができません。マグニチュ-ド9、震度6強の東日本震災の始まりでした。道路にはヒビが入り、マンホールのふたが傾き、人々が外に出て不安そうに「家にいると怖い」と話していました。

水が出ず、電気が止まり、数少ないガソリンスタンドは長蛇の列。店が閉まり食べるものは持ち合わせのものだけ。電話も通じず、情報は携帯ラジオだけです。町の広報車が炊き出しをすると走って行きましたが、お握り一つ、一個のイチゴ、飲み物はなし、それも一日一回という。お年よりは炊き出し場所までどうやっていくのだろうか。

私は部屋がめちゃめちゃになった老夫婦家のかたづけが一段落した後、長引けば長引くほど帰るのが困難になると判断、二日遅れで蔵王脱出を決意。地震が来てから3日目のことでした。

3月14日午前3時、肌をさすような寒さ。冬の星座が満天に広がっています。国道4号線をまっしぐらに車を走らせました。真夜中というのにトラックが数台走っていました。前方に暗闇の中に投光機に照らされた大きく崩れた山肌が目に飛び込んできました。不気味な光に浮かぶ山肌が地震の凄さを物語っていました。

道の駅のトイレは閉鎖され、唯一、コンビニのトイレが使えました。食料はカップヌードルと飲み物の自動販売機だけです。国道沿いのガソリンスタンドには、「完売、品切れ」という貼紙。やっとの思いで補給した所は、1台につき2000円分約13リットルです。満タンでスタートしたため一回の補給ですみました。160キロ地点で那須の夜が明け始めました。那須の山々は、白みかけてきた光に雪が輝き幻想的でした。

救援物資を運ぶと見られるトラックの数がのぼりの車線をどんどん走っていきます。店はシャッターを閉め、会社も操業中止が目立ちました。宇都宮にさしかかる頃から車は渋滞、1キロ進むのに数10分も。睡魔と闘いながらの運転で、自宅に到着したのが17時過ぎ、14時間余りかかっていました。

疲れた体を引きずり、ショートステイをお願いしていた介護施設に母を迎えにゆきました。妻の兄弟姉妹も仙台や南三陸に住んでいます。87歳の義姉の無事が確認できました。妻の友人の中には安否が不明の方もいます。日を追って津波の爪あとの恐ろしさが強まり、福島原発事故の被害も拡大し心配です。この震災は私たちに多くの課題を提供してくれています。まずは被災にあった人たちの救援が急がれます。